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-経緯-
太平洋戦争直前の、昭和16年8月18日静岡県浜松市で中村誠策(当時18歳/推定)は、強盗と強姦目的で芸妓屋に侵入し2人を刺殺した。更に翌19日には料理屋で3人を刺殺した。
犯行から1ヵ月後の9月27日、中村は自宅で就寝中の兄を刺殺。父親と姉、兄の妻とその子供の4人に重軽傷を負わせた。この犯行は、外部からの侵入者が強盗殺人を働いたとみせかける偽装をしたため、警察は中村を疑うことは無かった。
この年の12月8日、日本はハワイの真珠湾を奇襲攻撃して太平洋戦争が勃発。中村は、その翌年の昭和17年8月25日にも強盗強姦目的で3人を殺害して、僅か1年余りで9人を殺害し4人に重軽傷を負わせた。
この事件の捜査をしたのが、戦後になって無実の人を死刑台に送り込もうとして有名になった゛名刑事゛紅林(くればやし)麻雄刑事だった(幸浦事件、二俣事件、小島事件、島田事件)。さすがに、本件では中村が真犯人として逮捕。取り調べでは、素直に犯行を自供した。
-動機-
中村は、両親と7人兄弟の6男として出生。生まれつきの聴覚障害者で簡単な言葉しか発音ができなかった。このため、家族からは厄介者として冷たく扱われていた。だが、彼の知能水準は高く、ろうあ学校では常に主席だった。
犯行の動機は、兄殺害に関しては家族が冷たい態度に対して恨んでの犯行と言われているが、実際には「丹下作善のように人を刺してみたかった」などと供述している。また、芸妓屋や料理屋の犯行については、「人を殺害すると爽快になり、よく寝られた」と供述。このため、警察は精神科医の内村教授らに鑑定を依頼したところ、確かに知能は高いものの、人に対する思いやりや憐憫の情などが欠如しており、人間としての基本的な感情も育っておらず心身衰弱症と診断された。
だが、時は戦時下。静岡地裁浜松支部は、中村を難聴者(所謂、ろうあ者ではなく)と認定し審議した。更には、戦時刑事特別法により審議は二審までで、結局昭和19年に中村の死刑が確定した。判決後、間もなく死刑執行となった。
-余談-
中村の自供では、昭和13年にも、強盗強姦目的で女性を2人殺害している。これが真実だとすると、中村は11人殺しの殺人犯ということになる。また、9人殺しでも大事件であるが、戦時下のため新聞の片隅に僅か数行が報じられただけなので、現在に至るまで詳細は不明の部分が多い。尚、中村の父親は、逮捕直後に川に投身自殺している。
太平洋戦争直前の、昭和16年8月18日静岡県浜松市で中村誠策(当時18歳/推定)は、強盗と強姦目的で芸妓屋に侵入し2人を刺殺した。更に翌19日には料理屋で3人を刺殺した。
犯行から1ヵ月後の9月27日、中村は自宅で就寝中の兄を刺殺。父親と姉、兄の妻とその子供の4人に重軽傷を負わせた。この犯行は、外部からの侵入者が強盗殺人を働いたとみせかける偽装をしたため、警察は中村を疑うことは無かった。
この年の12月8日、日本はハワイの真珠湾を奇襲攻撃して太平洋戦争が勃発。中村は、その翌年の昭和17年8月25日にも強盗強姦目的で3人を殺害して、僅か1年余りで9人を殺害し4人に重軽傷を負わせた。
この事件の捜査をしたのが、戦後になって無実の人を死刑台に送り込もうとして有名になった゛名刑事゛紅林(くればやし)麻雄刑事だった(幸浦事件、二俣事件、小島事件、島田事件)。さすがに、本件では中村が真犯人として逮捕。取り調べでは、素直に犯行を自供した。
-動機-
中村は、両親と7人兄弟の6男として出生。生まれつきの聴覚障害者で簡単な言葉しか発音ができなかった。このため、家族からは厄介者として冷たく扱われていた。だが、彼の知能水準は高く、ろうあ学校では常に主席だった。
犯行の動機は、兄殺害に関しては家族が冷たい態度に対して恨んでの犯行と言われているが、実際には「丹下作善のように人を刺してみたかった」などと供述している。また、芸妓屋や料理屋の犯行については、「人を殺害すると爽快になり、よく寝られた」と供述。このため、警察は精神科医の内村教授らに鑑定を依頼したところ、確かに知能は高いものの、人に対する思いやりや憐憫の情などが欠如しており、人間としての基本的な感情も育っておらず心身衰弱症と診断された。
だが、時は戦時下。静岡地裁浜松支部は、中村を難聴者(所謂、ろうあ者ではなく)と認定し審議した。更には、戦時刑事特別法により審議は二審までで、結局昭和19年に中村の死刑が確定した。判決後、間もなく死刑執行となった。
-余談-
中村の自供では、昭和13年にも、強盗強姦目的で女性を2人殺害している。これが真実だとすると、中村は11人殺しの殺人犯ということになる。また、9人殺しでも大事件であるが、戦時下のため新聞の片隅に僅か数行が報じられただけなので、現在に至るまで詳細は不明の部分が多い。尚、中村の父親は、逮捕直後に川に投身自殺している。
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東京・山梨連続リンチ殺人事件(とうきょう・やまなしれんぞくりんちさつじんじけん)とは、2003年5月から、同年10月にかけて、東京都新宿区と山梨県北都留郡丹波山村で発生した殺人・死体遺棄事件である。
犯行グループの男女11人は以前からクレジットカードを使った振り込め詐欺を繰り返していた。
2003年9月頃から元飲食店経営者のAさん(当時26歳)を含む数人を埼玉県戸田市のアパートに監禁し、9月19日に山梨県北都留郡丹波山村の甲武キャンプ村の駐車場に停めてあった車両の中ででAさんを首を絞めるなどして殺害した。またAさんをいったん解放した後に、殺害したことが判明している。
2003年10月4日に東京都西多摩郡奥多摩町の町道で人間の右腕が落ちているのを猟友会の男性が発見した。司法解剖の結果、身元はAさんと判明した。
その後、2004年1月8日までに未成年者二人を含む男女8人がAさんに対する逮捕・監禁容疑で逮捕された。後に殺人・死体遺棄・死体損壊容疑で再逮捕されている。しかし共犯者の残りの3人がすでにアフリカ等国外に逃亡しており、国際刑事警察機構を通じて国際指名手配された。その後、容疑者ら供述により小菅村で白骨化したAさんの頭蓋骨が発見された。また8人のうち数人が別の事件に関与した疑いが強まり、言及したところ、別の男性に暴行を加え、死亡させ、死体を埼玉県秩父郡長瀞町に遺棄したとも供述した。1月12日に長瀞町の山中を捜索したところ、人間の胴体が発見された。身元は元スナック店経営のBさんだと判明。Bさんは、2003年5月27日から新宿区歌舞伎町から行方がわからなくなり、家族が捜索願を出していた。その後の捜査で5月27日に歌舞伎町のホテルで暴行を加え、死亡させ、翌日に長静町に遺体を遺棄したことがわかった。
2004年4月12日に警視庁は主犯格の男を含む逃亡中の3人に対し、逮捕状を取り、Bさんに対する殺人・死体遺棄容疑で指名手配した。
国際手配されている3人のうち1人は、2004年6月4日にクレジットカード不正利用でアメリカハワイ州の刑務所に服役していた男が刑期を終えたために、アメリカ政府が身柄の明け渡しを求め、警視庁がそれに応じ、日本に強制送還され、その後逮捕された。
2004年9月15日に東京地裁(合田悦三裁判長)は二人の被告にそれぞれ懲役14年、懲役12年の判決を下した。
2006年3月7日に東京地裁(合田悦三裁判長)は、事件当時17歳の少女に対し、懲役3年、執行猶予5年の有罪判決を下した。その後、控訴。
2007年8月に東京高裁は、前述の判決を支持し、懲役3年、執行猶予5年の有罪判決を下した。
2011年1月12日現在、主犯格の男を含む2人は国際指名手配されている。
犯行グループの男女11人は以前からクレジットカードを使った振り込め詐欺を繰り返していた。
2003年9月頃から元飲食店経営者のAさん(当時26歳)を含む数人を埼玉県戸田市のアパートに監禁し、9月19日に山梨県北都留郡丹波山村の甲武キャンプ村の駐車場に停めてあった車両の中ででAさんを首を絞めるなどして殺害した。またAさんをいったん解放した後に、殺害したことが判明している。
2003年10月4日に東京都西多摩郡奥多摩町の町道で人間の右腕が落ちているのを猟友会の男性が発見した。司法解剖の結果、身元はAさんと判明した。
その後、2004年1月8日までに未成年者二人を含む男女8人がAさんに対する逮捕・監禁容疑で逮捕された。後に殺人・死体遺棄・死体損壊容疑で再逮捕されている。しかし共犯者の残りの3人がすでにアフリカ等国外に逃亡しており、国際刑事警察機構を通じて国際指名手配された。その後、容疑者ら供述により小菅村で白骨化したAさんの頭蓋骨が発見された。また8人のうち数人が別の事件に関与した疑いが強まり、言及したところ、別の男性に暴行を加え、死亡させ、死体を埼玉県秩父郡長瀞町に遺棄したとも供述した。1月12日に長瀞町の山中を捜索したところ、人間の胴体が発見された。身元は元スナック店経営のBさんだと判明。Bさんは、2003年5月27日から新宿区歌舞伎町から行方がわからなくなり、家族が捜索願を出していた。その後の捜査で5月27日に歌舞伎町のホテルで暴行を加え、死亡させ、翌日に長静町に遺体を遺棄したことがわかった。
2004年4月12日に警視庁は主犯格の男を含む逃亡中の3人に対し、逮捕状を取り、Bさんに対する殺人・死体遺棄容疑で指名手配した。
国際手配されている3人のうち1人は、2004年6月4日にクレジットカード不正利用でアメリカハワイ州の刑務所に服役していた男が刑期を終えたために、アメリカ政府が身柄の明け渡しを求め、警視庁がそれに応じ、日本に強制送還され、その後逮捕された。
2004年9月15日に東京地裁(合田悦三裁判長)は二人の被告にそれぞれ懲役14年、懲役12年の判決を下した。
2006年3月7日に東京地裁(合田悦三裁判長)は、事件当時17歳の少女に対し、懲役3年、執行猶予5年の有罪判決を下した。その後、控訴。
2007年8月に東京高裁は、前述の判決を支持し、懲役3年、執行猶予5年の有罪判決を下した。
2011年1月12日現在、主犯格の男を含む2人は国際指名手配されている。
■ 一家3遺体 頭部にクイ…長野・御代田町
[スポーツ報知 - 2006年10月7日06時00分]
http://hochi.yomiuri.co.jp/topics/news/20061007-OHT1T00021.htm
6日午前4時10分ごろ、長野県警佐久署員が、同県御代田町の会社員・小嶋秀史さん(48)方で、男女3人の遺体を発見した。
遺体は小嶋さんと、長女の高校3年生・由美さん(18)、妻(45)の母・有坂タツ子さん(78)と判明。それぞれ頭部に2、3本ずつ、金属のクイが刺さっていた。
自宅などには行方不明の妻が殺害をほのめかしたと見られる遺書めいたメモがあり、同署では妻が事情を知っていると見て捜している。
佐久署員が発見したのは、異様な光景だった。発端は6日午前2時半ごろ。同署員らが御代田町草越の湯川にかかる軽井沢大橋(高さ約80メートル)に「不審車がある」との通報を受け、駆けつけた。
橋にはロックされていない無人のワゴン車があり、車内にはメモが残されていた。佐久署によると「自首できなくてすみません、警察の方すみません、娘と夫の携帯です」と書かれ、携帯電話も置いてあったという。
署員が車を所有する小嶋さん方を訪ねたところ、3遺体を発見。
それぞれ別の部屋で見つかったが、頭に2、3本ずつ金属のクイが刺さっていた。
工事現場やテント設営などに使われる「長さ二十数センチ、太さは7、8ミリのもの」と言う。比較的新しく、脳天や側頭部など、刺さっている場所や方向はさまざま。
室内には荒らされた形跡はなかったが、犯行に使ったと見られる木づちが見つかった。
3人がクイを打たれて死亡したのか、死亡後に打たれたのかは明らかにされていない。
遺体には布団やタオルが掛けられていた。行方不明の妻が残したと見られるメモは自宅にもあり、3人の殺害をほのめかす内容だった。動機には触れていなかった。
[スポーツ報知 - 2006年10月7日06時00分]
http://hochi.yomiuri.co.jp/topics/news/20061007-OHT1T00021.htm
6日午前4時10分ごろ、長野県警佐久署員が、同県御代田町の会社員・小嶋秀史さん(48)方で、男女3人の遺体を発見した。
遺体は小嶋さんと、長女の高校3年生・由美さん(18)、妻(45)の母・有坂タツ子さん(78)と判明。それぞれ頭部に2、3本ずつ、金属のクイが刺さっていた。
自宅などには行方不明の妻が殺害をほのめかしたと見られる遺書めいたメモがあり、同署では妻が事情を知っていると見て捜している。
佐久署員が発見したのは、異様な光景だった。発端は6日午前2時半ごろ。同署員らが御代田町草越の湯川にかかる軽井沢大橋(高さ約80メートル)に「不審車がある」との通報を受け、駆けつけた。
橋にはロックされていない無人のワゴン車があり、車内にはメモが残されていた。佐久署によると「自首できなくてすみません、警察の方すみません、娘と夫の携帯です」と書かれ、携帯電話も置いてあったという。
署員が車を所有する小嶋さん方を訪ねたところ、3遺体を発見。
それぞれ別の部屋で見つかったが、頭に2、3本ずつ金属のクイが刺さっていた。
工事現場やテント設営などに使われる「長さ二十数センチ、太さは7、8ミリのもの」と言う。比較的新しく、脳天や側頭部など、刺さっている場所や方向はさまざま。
室内には荒らされた形跡はなかったが、犯行に使ったと見られる木づちが見つかった。
3人がクイを打たれて死亡したのか、死亡後に打たれたのかは明らかにされていない。
遺体には布団やタオルが掛けられていた。行方不明の妻が残したと見られるメモは自宅にもあり、3人の殺害をほのめかす内容だった。動機には触れていなかった。
【事件概要】
1990年11月13日(水)午後7時45分、新潟県三条市内にある駐在所に、近くの主婦が「小学4年生の次女が帰ってこない」と届け出た。その日のうちに捜索が行われたが、発見できず。その後も捜索は続けられたが、ついに少女の行方はわからなかった。
2000年1月12日、柏崎市四谷にある佐藤宣行(当時37歳)宅を訪問した保健所の保健婦が2階の宣行の部屋にて毛布にくるまった女性(当時19歳)を発見。女性はすぐに保護され、三条市で行方不明となった少女と判明する。佐藤は下校途中の少女をさらい、自室に連れ込み生活させた。少女や母親に対する暴力・虐待も日常的にあったようである。女性は家族と実に9年2ヶ月ぶりの再会を果たした。
佐藤宣行
【少年時代の佐藤】
1962年7月15日生まれ。両親の年老いてからの子供ということもあり、「ボクちゃん」と呼ばれて溺愛されていた。(成人後も「ボクちゃん」と呼ばれていた。このあたりは大久保清にも通じる)
小学1年の時、父親が家を新築し、2階の十畳ほどの洋間を自室として与えられる。
中学1年の時、「怖くて学校に行けない」と言うので精神科の診察を受けたところ不潔恐怖症と診断された。(会社でタクシーの洗車を日常的にしていた父親も不潔恐怖症だった。)虫を毛嫌いし、わずかな汚れを気にした。
中学生の佐藤から見て、70半ばを過ぎた父親は薄汚れて見えるうとましい存在になっており、「あんなのオヤジじゃない」とよく言っていた。
工業高校時代、体格は大きく175cmほどあったが、覇気がなくなよなよした話し方から”オカマ”と呼ばれていた。学校では目立たない存在だったと言う。この頃から、自分の殻に閉じこもるようになり、家の中で鬱憤をはらすようになっていた。
【少女監禁までの佐藤】
高校を卒業した佐藤は自動車部品製造の工員となった。ある日、出勤する途中に立小便をしたとき「クモの巣にかかって汚れた」と家に引き返した。このような奇行が続き、わずか数ヶ月で退職し、そのあとまったく働いていない。
1981年7月、19歳の時、父親を家から追い出す。そのあと母親と口論となり、「私も出て行く」と言われたことから激昂。家の仏壇に火をつけ、危うく火事になるところだった。良岡市の国立病院の精神科にて強迫神経症(不潔恐怖)と診断される。即日入院し、向精神薬を投与され、1ヶ月ほどで良くなり退院。
23歳のなった佐藤は母親に「僕もそろそろ自立しなければならない。お母さんにいつまでも甘えているわけにはいかないので、独立して生活できるように家を増築してほしい」と話す。
息子が就職口を見つけて真面目に働くと思った母親はただちに700万で家を増築する。しかし佐藤が2階の自室を工事業者に踏み込まれるのを頑なに拒否したため、増築は中途半端なまま中止となり、佐藤が就職するという約束も反固にされた。
佐藤は母親に対しては好きなアイドル歌手のレコードや、競馬新聞などを買いに行かせており、この母親は商店の人達のあいだで、ある種の有名人となっていた。競馬場の行きかえりも母親が車で送っており、レースが終わるまでベンチに腰かけて待っている母親の姿が、競馬場の常連の間でも知られていた。佐藤が競馬に勝つと、母親になじみの寿司屋で極上のトロのにぎり10個、8000円分を買わせたことが何度かあった。
1989年6月13日、佐藤はいたずら目的で下校途中の小学四年生A子を空き地に連れ込もうとしたが、別の児童の通報により学校事務員に取り押さえられた。
9月19日、新潟地裁長岡支部は佐藤に対し懲役一年、執行猶予三年を言い渡す。
10月5日、刑が確定。
裁判官は再犯の可能性は低いとして、保護観察処分ではなく、母親に監督・指導を任せた。ちなみにこの事件について柏崎署と新潟県警本部は強制わいせつで検挙した佐藤を「前歴者リスト」に登録しておらず、刑が確定したあとも登録漏れのまま放置していた。
【監禁】
1990年11月13日、下校途中の少女をナイフを突き付けて脅し、車のトランクに押し込め、自宅に連れ込む。部屋に連れ込むと数十回に渡り少女を殴打した。「出られないぞ」「俺の言うことを守れ」と言いつづけ、ナイフを少女の腹部に突き付けて「これを刺してみるか」「山に埋めてやる」などと脅した。逃げられないように佐藤の外出中は少女を縛りつけていた。
91~92年ごろ、母親に買わせたスタンガンを少女に押し当てて放電し、大変な恐怖心を植えつけた。大声をあげると佐藤の罰があるので、少女は自分の腕を噛み痛みに耐えていた。少女に「おじさん」と呼ばれると激昂し、少女を殴った。少女に競馬番組のビデオ録画を命じ、忘れたりすると殴打した。少女は常にベッドの上にいるように指示し、守らない場合は罰を加えた。用便すらも部屋から出さず、ビニール袋の中にさせた。少女がベッドから落ち、埃まみれになった時のただ一度しかシャワーを使わせなかった。このような生活により、両下肢筋力は低下、骨量も減少しており、歩行も難しくなった。
はじめのうちは母親が作った夜食用の弁当を少女に与えており途中からコンビニの弁当(おにぎり)に切り替えた。96年頃からはそれまで一日ニ個与えていた弁当を一個しか与えなくなった。小学四年生時に46kgあった少女の体重は38kgにまで落ち、失神するようになった。
佐藤は少女の服を自分で買うことも、気づかれないために母親に頼むこともできず、ショッピングセンターで万引きして洋服を入手していた。
母親の要請により、佐藤の精神病院入院のために訪れた保健所の職員などが自宅を訪れたことにより発覚。
【佐藤の父親】
東京の大会社の重役を送迎する運転手をしていたが帰郷し、柏崎市内でタクシー会社を設立、専務取締役61歳で再婚し、誕生した一人息子を溺愛する。父親81歳の時、息子に家を追い出される。以後、異母姉の家に避難。
その後、老人介護施設に入所していたが、少女が佐藤宅に連れてこられる前の年に亡くなっている。
【母親】
若い頃、心中騒動を起こし、婚期が遅れて35歳で26歳年上の夫と結婚(初婚)。
職業は保険外交員。45歳の時、息子を精神科に連れて行くために自動車免許を取得。営業成績が上がった。
1991年4月(当時64歳)、柏崎市内のホームセンターでスタンガンを購入。少女発見まで20年以上も息子の部屋には入っておらず、少女の存在も知らなかった。
この頃には母親の生保の外交員の仕事もほとんどなくなっていた。だが若いころに実績をあげていたため、60歳の定年を5年延長できたうえに、定年退職後も嘱託として仕事を続けることができたが、もう契約はほとんどとれなくなっていた。佐藤の暴力は激しくなり、心底おびえた母親は午前10時から午後4時まで500円で居つづけることのできる「カンポの宿」で時間をつぶすことが多かったという。
母親はもう限界だった。
「このところ息子の暴力がひどい。自分の意のままにならないと殴る蹴るのうえに、私を縛り付けて、トイレにさえ行かしてくれない」
1999年12月、73歳になった母親は息子の暴力が激しくなってきたことから市内の精神病院へ相談に行き「息子を入院させてください」頼んだが、「本人を連れてきなさい」と言われる。しかし当然、佐藤は拒否。医師は「これ以上同居させておいては母親の身が危険」と判断し、自宅に乗り込むことを決めた。
翌年1月28日午後1時半頃、精神病院の副院長、弁護士、保健所職員など7名が佐藤宅を訪れる。少女発見となった。
「靴はないの。外に出られないから」
保健所職員などに付き添われて、家を出ようとした際、少女はそうつぶやいたという。
【もうひとつの事件】
監禁事件は解決したが、この事件にはもう一つの犯罪が存在した。
また4月までに、同県長岡市で、被害女性の実名、入院先の病院の電話番号などが書かれたビラが何枚も貼られているのが見つかったのである。ビラは市内の保険会社にも郵送されていた。
【裁判】
2002年
1月22日 新潟地裁・榊五十雄裁判長は佐藤に懲役14年を言い渡す。
1月24日 佐藤の弁護人は不服として東京高裁に控訴。
12月10日 東京高裁・山田利夫裁判長は一審を破棄、懲役11年を言い渡す。
12月24日 佐藤は二審の東京高裁判決を不服として、最高裁判所に上告。
2003年7月10日、 最高裁は二審の懲役11年を取り消し、佐藤の上訴を棄却。
リンク
柏崎市、三条市などの位置
http://map.yahoo.co.jp/prefmap/admi15.html
新潟日報 「女性監禁事件」の経過
http://www.niigata-nippo.co.jp/kankin/m0123050.html
≪参考文献≫
葦書房 「事件1999-2000」 佐木隆三 永守良孝
朝日新聞社 「朝日キーワード2004」 →「新潟女性監禁事件裁判」
朝日出版社 「心の壊れた子どもたち」 町沢静夫
学習研究社 「歴史群像シリーズ81 戦後事件史 あの時何が起きたのか」
KKベストセラーズ 「法廷絵師は見た!」 大橋伸一
時事通信社 「時事ニュースワード2001」 →「新潟拉致監禁事件」
主婦と生活社 「カプセル 新潟少女監禁事件密室の3364日」 松田美智子
小学館 「少女はなぜ逃げなかったか 続出する特異事件の心理学」 碓井真史
小学館 「14階段 検証 新潟少女9年2ヶ月監禁事件」 窪田順生
情報センター出版局 「子供をゆがませる間取り」 横山彰人
新人物往来社 「別冊歴史読本 戦後事件史データファイル」
新人物往来社 「新潟少女監禁事件 空白の九年二ヶ月」 毎日新聞新潟支局編
新潮社 「週刊新潮 05年11月17日号」
青春出版社 「少女監禁」 佐木隆三
宝島社 「別冊宝島 猟奇事件ファイル 【悪魔と呼ばれた人間たちの犯罪履歴書】」
宝島社 「『少女監禁』と『バスジャック』~マスコミ報道と精神医療」 月崎時央
中央公論新社 「『人権』報道 書かれる立場書く立場」 読売新聞社編
東京書籍 「裁かれる家族 断たれた絆を法廷でみつめて」 佐木隆三
東京法経学院出版 「明治・大正・昭和・平成 事件犯罪大辞典」 事件・犯罪研究会・編
二見書房 「消えた子供たちを捜して!」 近藤昭二
文藝春秋 「週刊文春 01年12月20日」
ミリオン出版 「別冊ナックルズ 昭和三大事件」
1990年11月13日(水)午後7時45分、新潟県三条市内にある駐在所に、近くの主婦が「小学4年生の次女が帰ってこない」と届け出た。その日のうちに捜索が行われたが、発見できず。その後も捜索は続けられたが、ついに少女の行方はわからなかった。
2000年1月12日、柏崎市四谷にある佐藤宣行(当時37歳)宅を訪問した保健所の保健婦が2階の宣行の部屋にて毛布にくるまった女性(当時19歳)を発見。女性はすぐに保護され、三条市で行方不明となった少女と判明する。佐藤は下校途中の少女をさらい、自室に連れ込み生活させた。少女や母親に対する暴力・虐待も日常的にあったようである。女性は家族と実に9年2ヶ月ぶりの再会を果たした。
佐藤宣行
【少年時代の佐藤】
1962年7月15日生まれ。両親の年老いてからの子供ということもあり、「ボクちゃん」と呼ばれて溺愛されていた。(成人後も「ボクちゃん」と呼ばれていた。このあたりは大久保清にも通じる)
小学1年の時、父親が家を新築し、2階の十畳ほどの洋間を自室として与えられる。
中学1年の時、「怖くて学校に行けない」と言うので精神科の診察を受けたところ不潔恐怖症と診断された。(会社でタクシーの洗車を日常的にしていた父親も不潔恐怖症だった。)虫を毛嫌いし、わずかな汚れを気にした。
中学生の佐藤から見て、70半ばを過ぎた父親は薄汚れて見えるうとましい存在になっており、「あんなのオヤジじゃない」とよく言っていた。
工業高校時代、体格は大きく175cmほどあったが、覇気がなくなよなよした話し方から”オカマ”と呼ばれていた。学校では目立たない存在だったと言う。この頃から、自分の殻に閉じこもるようになり、家の中で鬱憤をはらすようになっていた。
【少女監禁までの佐藤】
高校を卒業した佐藤は自動車部品製造の工員となった。ある日、出勤する途中に立小便をしたとき「クモの巣にかかって汚れた」と家に引き返した。このような奇行が続き、わずか数ヶ月で退職し、そのあとまったく働いていない。
1981年7月、19歳の時、父親を家から追い出す。そのあと母親と口論となり、「私も出て行く」と言われたことから激昂。家の仏壇に火をつけ、危うく火事になるところだった。良岡市の国立病院の精神科にて強迫神経症(不潔恐怖)と診断される。即日入院し、向精神薬を投与され、1ヶ月ほどで良くなり退院。
23歳のなった佐藤は母親に「僕もそろそろ自立しなければならない。お母さんにいつまでも甘えているわけにはいかないので、独立して生活できるように家を増築してほしい」と話す。
息子が就職口を見つけて真面目に働くと思った母親はただちに700万で家を増築する。しかし佐藤が2階の自室を工事業者に踏み込まれるのを頑なに拒否したため、増築は中途半端なまま中止となり、佐藤が就職するという約束も反固にされた。
佐藤は母親に対しては好きなアイドル歌手のレコードや、競馬新聞などを買いに行かせており、この母親は商店の人達のあいだで、ある種の有名人となっていた。競馬場の行きかえりも母親が車で送っており、レースが終わるまでベンチに腰かけて待っている母親の姿が、競馬場の常連の間でも知られていた。佐藤が競馬に勝つと、母親になじみの寿司屋で極上のトロのにぎり10個、8000円分を買わせたことが何度かあった。
1989年6月13日、佐藤はいたずら目的で下校途中の小学四年生A子を空き地に連れ込もうとしたが、別の児童の通報により学校事務員に取り押さえられた。
9月19日、新潟地裁長岡支部は佐藤に対し懲役一年、執行猶予三年を言い渡す。
10月5日、刑が確定。
裁判官は再犯の可能性は低いとして、保護観察処分ではなく、母親に監督・指導を任せた。ちなみにこの事件について柏崎署と新潟県警本部は強制わいせつで検挙した佐藤を「前歴者リスト」に登録しておらず、刑が確定したあとも登録漏れのまま放置していた。
【監禁】
1990年11月13日、下校途中の少女をナイフを突き付けて脅し、車のトランクに押し込め、自宅に連れ込む。部屋に連れ込むと数十回に渡り少女を殴打した。「出られないぞ」「俺の言うことを守れ」と言いつづけ、ナイフを少女の腹部に突き付けて「これを刺してみるか」「山に埋めてやる」などと脅した。逃げられないように佐藤の外出中は少女を縛りつけていた。
91~92年ごろ、母親に買わせたスタンガンを少女に押し当てて放電し、大変な恐怖心を植えつけた。大声をあげると佐藤の罰があるので、少女は自分の腕を噛み痛みに耐えていた。少女に「おじさん」と呼ばれると激昂し、少女を殴った。少女に競馬番組のビデオ録画を命じ、忘れたりすると殴打した。少女は常にベッドの上にいるように指示し、守らない場合は罰を加えた。用便すらも部屋から出さず、ビニール袋の中にさせた。少女がベッドから落ち、埃まみれになった時のただ一度しかシャワーを使わせなかった。このような生活により、両下肢筋力は低下、骨量も減少しており、歩行も難しくなった。
はじめのうちは母親が作った夜食用の弁当を少女に与えており途中からコンビニの弁当(おにぎり)に切り替えた。96年頃からはそれまで一日ニ個与えていた弁当を一個しか与えなくなった。小学四年生時に46kgあった少女の体重は38kgにまで落ち、失神するようになった。
佐藤は少女の服を自分で買うことも、気づかれないために母親に頼むこともできず、ショッピングセンターで万引きして洋服を入手していた。
母親の要請により、佐藤の精神病院入院のために訪れた保健所の職員などが自宅を訪れたことにより発覚。
【佐藤の父親】
東京の大会社の重役を送迎する運転手をしていたが帰郷し、柏崎市内でタクシー会社を設立、専務取締役61歳で再婚し、誕生した一人息子を溺愛する。父親81歳の時、息子に家を追い出される。以後、異母姉の家に避難。
その後、老人介護施設に入所していたが、少女が佐藤宅に連れてこられる前の年に亡くなっている。
【母親】
若い頃、心中騒動を起こし、婚期が遅れて35歳で26歳年上の夫と結婚(初婚)。
職業は保険外交員。45歳の時、息子を精神科に連れて行くために自動車免許を取得。営業成績が上がった。
1991年4月(当時64歳)、柏崎市内のホームセンターでスタンガンを購入。少女発見まで20年以上も息子の部屋には入っておらず、少女の存在も知らなかった。
この頃には母親の生保の外交員の仕事もほとんどなくなっていた。だが若いころに実績をあげていたため、60歳の定年を5年延長できたうえに、定年退職後も嘱託として仕事を続けることができたが、もう契約はほとんどとれなくなっていた。佐藤の暴力は激しくなり、心底おびえた母親は午前10時から午後4時まで500円で居つづけることのできる「カンポの宿」で時間をつぶすことが多かったという。
母親はもう限界だった。
「このところ息子の暴力がひどい。自分の意のままにならないと殴る蹴るのうえに、私を縛り付けて、トイレにさえ行かしてくれない」
1999年12月、73歳になった母親は息子の暴力が激しくなってきたことから市内の精神病院へ相談に行き「息子を入院させてください」頼んだが、「本人を連れてきなさい」と言われる。しかし当然、佐藤は拒否。医師は「これ以上同居させておいては母親の身が危険」と判断し、自宅に乗り込むことを決めた。
翌年1月28日午後1時半頃、精神病院の副院長、弁護士、保健所職員など7名が佐藤宅を訪れる。少女発見となった。
「靴はないの。外に出られないから」
保健所職員などに付き添われて、家を出ようとした際、少女はそうつぶやいたという。
【もうひとつの事件】
監禁事件は解決したが、この事件にはもう一つの犯罪が存在した。
また4月までに、同県長岡市で、被害女性の実名、入院先の病院の電話番号などが書かれたビラが何枚も貼られているのが見つかったのである。ビラは市内の保険会社にも郵送されていた。
【裁判】
2002年
1月22日 新潟地裁・榊五十雄裁判長は佐藤に懲役14年を言い渡す。
1月24日 佐藤の弁護人は不服として東京高裁に控訴。
12月10日 東京高裁・山田利夫裁判長は一審を破棄、懲役11年を言い渡す。
12月24日 佐藤は二審の東京高裁判決を不服として、最高裁判所に上告。
2003年7月10日、 最高裁は二審の懲役11年を取り消し、佐藤の上訴を棄却。
リンク
柏崎市、三条市などの位置
http://map.yahoo.co.jp/prefmap/admi15.html
新潟日報 「女性監禁事件」の経過
http://www.niigata-nippo.co.jp/kankin/m0123050.html
≪参考文献≫
葦書房 「事件1999-2000」 佐木隆三 永守良孝
朝日新聞社 「朝日キーワード2004」 →「新潟女性監禁事件裁判」
朝日出版社 「心の壊れた子どもたち」 町沢静夫
学習研究社 「歴史群像シリーズ81 戦後事件史 あの時何が起きたのか」
KKベストセラーズ 「法廷絵師は見た!」 大橋伸一
時事通信社 「時事ニュースワード2001」 →「新潟拉致監禁事件」
主婦と生活社 「カプセル 新潟少女監禁事件密室の3364日」 松田美智子
小学館 「少女はなぜ逃げなかったか 続出する特異事件の心理学」 碓井真史
小学館 「14階段 検証 新潟少女9年2ヶ月監禁事件」 窪田順生
情報センター出版局 「子供をゆがませる間取り」 横山彰人
新人物往来社 「別冊歴史読本 戦後事件史データファイル」
新人物往来社 「新潟少女監禁事件 空白の九年二ヶ月」 毎日新聞新潟支局編
新潮社 「週刊新潮 05年11月17日号」
青春出版社 「少女監禁」 佐木隆三
宝島社 「別冊宝島 猟奇事件ファイル 【悪魔と呼ばれた人間たちの犯罪履歴書】」
宝島社 「『少女監禁』と『バスジャック』~マスコミ報道と精神医療」 月崎時央
中央公論新社 「『人権』報道 書かれる立場書く立場」 読売新聞社編
東京書籍 「裁かれる家族 断たれた絆を法廷でみつめて」 佐木隆三
東京法経学院出版 「明治・大正・昭和・平成 事件犯罪大辞典」 事件・犯罪研究会・編
二見書房 「消えた子供たちを捜して!」 近藤昭二
文藝春秋 「週刊文春 01年12月20日」
ミリオン出版 「別冊ナックルズ 昭和三大事件」
22時間に渡る乱暴だったそうです。
自宅で試験勉強をしていた女子大生が被害者者だそうです。
奨学金を受けて大学に通ってた真面目な子で事件当時処女だったそうです。
国分に5回、服部に5回、中島に2回姦淫された。
宅急便を装った3人が押し入ってカード類を強奪乱暴した。
最初国分が下半身を脱いで包丁で強制的に騎乗位させたそうです。
「痛い痛い許してください」と嗚咽したそうです。
その後はリビングやロフトベットや浴室で乱暴され続けたそうです。
膣内射精、口内射精を無数にされた。「口でやれ飲み込め」とも言われた。
混浴を強制されたりロフト上では3人が見てる前で浣腸させられて布団上に排泄させられて食させられた。浣腸は2回もさせられた。ポラロイドも多数撮られて一枚は被害者のパソコン内に壁紙に取り込まれてた。
浴室では陰毛は完全に剃毛されたそうです。口封じのために頭髪もハサミで切った後カミソリで完全に剃毛したそうです。 肛門や膣に執拗に異物でかき回した。肛門は完全に裂けた状態だったそうです。胸にも執拗に噛み付き乳房は傷だらけで乳首は噛み切られて断裂状態だったそうです。
逃げるときに犯人は証拠隠滅のために指紋をふき取って膣内から精液も掻きだして異物を大量に詰め込んだそうです。ロフト上に下着姿のまま目かくし猿轡をして後ろ手に縛りあげて階段をはずして逃走した。
結局被害者は妊娠が判明し中絶手術を余儀なくされたそうです。
又性感染症にも多数うつされたそうです。最悪の強姦事件だったそうです
被害
①妊娠(中絶)
②膣挫創(全治3ヶ月)
③膣内に大量の異物類
④性感染症に多数感染(トリコノム等)
⑤肛門裂傷(全治3ヶ月)
⑥乳房裂傷(無数の歯型)
⑦乳首断裂(歯で噛みちぎられた)
⑧陰毛を完全に剃毛される
⑨頭髪を完全に剃毛される
⑩眼球、口腔内に裂傷
自宅で試験勉強をしていた女子大生が被害者者だそうです。
奨学金を受けて大学に通ってた真面目な子で事件当時処女だったそうです。
国分に5回、服部に5回、中島に2回姦淫された。
宅急便を装った3人が押し入ってカード類を強奪乱暴した。
最初国分が下半身を脱いで包丁で強制的に騎乗位させたそうです。
「痛い痛い許してください」と嗚咽したそうです。
その後はリビングやロフトベットや浴室で乱暴され続けたそうです。
膣内射精、口内射精を無数にされた。「口でやれ飲み込め」とも言われた。
混浴を強制されたりロフト上では3人が見てる前で浣腸させられて布団上に排泄させられて食させられた。浣腸は2回もさせられた。ポラロイドも多数撮られて一枚は被害者のパソコン内に壁紙に取り込まれてた。
浴室では陰毛は完全に剃毛されたそうです。口封じのために頭髪もハサミで切った後カミソリで完全に剃毛したそうです。 肛門や膣に執拗に異物でかき回した。肛門は完全に裂けた状態だったそうです。胸にも執拗に噛み付き乳房は傷だらけで乳首は噛み切られて断裂状態だったそうです。
逃げるときに犯人は証拠隠滅のために指紋をふき取って膣内から精液も掻きだして異物を大量に詰め込んだそうです。ロフト上に下着姿のまま目かくし猿轡をして後ろ手に縛りあげて階段をはずして逃走した。
結局被害者は妊娠が判明し中絶手術を余儀なくされたそうです。
又性感染症にも多数うつされたそうです。最悪の強姦事件だったそうです
被害
①妊娠(中絶)
②膣挫創(全治3ヶ月)
③膣内に大量の異物類
④性感染症に多数感染(トリコノム等)
⑤肛門裂傷(全治3ヶ月)
⑥乳房裂傷(無数の歯型)
⑦乳首断裂(歯で噛みちぎられた)
⑧陰毛を完全に剃毛される
⑨頭髪を完全に剃毛される
⑩眼球、口腔内に裂傷
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